甲谷兵庫 こうたにひょうご 文政十一年〜明治三十八年 (1828-1905)

一門右田(みぎた)毛利家家臣。毛利内匠房顕(ふさあき)の家臣甲谷正之助の長男。
文政十一年九月二十三日周防国佐波郡右田に生まれる。
名は俊家。通称はじめ岩熊、のちに兵庫。号は竹隠。
若くして国学を学び勤王に目覚めた。
安政年中、絵を学ぶと称して上洛、西八条に住み、ひそかに公卿の門に出入りし、
議奏正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)の知遇をうけた。
安政五年正親町三条に召され、侍従中山忠光も列座して、
萩藩主毛利敬親に対する「戊午の密勅」を託された。
八月五日京を発し二十日萩に着くと、主毛利筑前元雄に相談。
翌朝、家老益田弾正(右衛門介)の私邸で藩の重臣たちの会する中において密勅を渡した。
幕府が無勅許で安政通商条約を結んだ時局を深く憂え、万一の場合は内裏を守護すべく、
毛利氏の忠勤を頼むという勤旨である。
藩主敬親は大いに感奮。兵庫はただちに帰京させられて、
蜜勤のことを謀った正親町三条と久我建通(くがたけみち)の両卿に復命。
別に周布政之助が内秦使として上京した。
十二月八日、兵庫はふたたび正親町三条の密使として帰国。
孝明天皇が幕府の暴逆を怒り、退位の意向を漏らしていることを告げて、藩主敬親の意見を求めた。
「主上みだりに位を去るは不可」との敬親の返書を預かり、兵庫は帰京した。
こうして京都と本藩との間をしばしば往復、朝廷と萩藩との架け橋の役を果たした。
維新後も旧縁をもって嵯峨家(旧正親町三条)に仕えたが、晩年は右田に帰り、
明治三十八年四月十七日七十八歳で没した。墓は右田の本因寺にある。
(三百藩家臣人名事典)

右田毛利の家臣は1718(享保3)年には
村上、石井、松永、甲谷、財満、桂、脇、木梨、三宅、小坂、土肥、堀が重臣であった。
(山口県/第一部/歴史・人物編)

甲谷正之助 [?]
甲谷 兵庫 [1828-1905]
甲谷 精一 [明治12年-大正6年]
甲谷 悦雄 [?]
甲谷知勝 甲谷勝人
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検索データの敬称は略させていただきました