甲谷道庵 (1764-1837)
徳川中末期の医家。明和元年生まる。
大和芝村藩の侍医。性慈愛に富み、かつて藩主に随従して江戸に下る途々輿夫非人らの病むものを見れば輿を留めて診察し、薬を施して去る。
当時東海道駅路には道庵の名高かったといふ。
天保八年二月二十二日没、年七十四
(近世人名2)
甲谷道庵は芝村の人にして芝村藩の御殿医たり。性恬淡にして寡欲夙に博愛善意の志あり、これを以って病者常に門に満ちぬ。
偶病癒えて謝礼を齎すものあれば、家僕に委して己知らざるものの如く、只貧を救ひ病を癒すを以って楽しみとせり。
伝へ聞く藩主の参勤交代に従して江戸に下れる途に、雲助、非人、乞食等の病むものあるを見れば、籠を留めて診察し、且つ薬を投じて去りしかば、当時東海道筋、道庵先生の名特に高かりきといふ。
天保八年二月二十二日病を以って没しき、時に七十四、嗣子紀孝も亦博愛慈善の名ありき。
(大和人物志)
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| 甲谷道庵 | [1764-1837] |
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| 甲谷紀孝 | [?] |
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奈良県桜井市の近藤医院のホームページ
http://www.mahoroba.ne.jp/~eye-kond/
で発見した情報です。
織田藩(桜井市芝)の御典医の甲谷家と槍の指南役の近藤家が養子縁組をした。
近藤家に甲谷家が入ったが、医者を続けるために屋号の甲谷はそのまま名乗り、名字は近藤、屋号は甲谷とした。
甲谷医院として桜井市で開業していたが、昭和56年に近藤医院とし現在に至っている.。
近藤達司さん(上記)からの情報です。
甲谷紀孝は「コウヤ」ではなく、「コウタニノリタカ」です。
天下茶屋の甲谷茂・橿原市の甲谷医院(甲谷武彦)・甲谷準一は紀孝さんの孫と思われます。
大和芝藩という名前がありましたが、実際は芝村藩主織田家です。織田信長の系列です。天理市にある柳本藩も同じ織田家の出です。
東京の有楽町の由来は芝村藩織田家の織田有楽斎(おだうらくさい)の茶室のあった
場所と聞いております。織田藩や甲谷家の系図に関しての詳しい古文書がありますが、漢字ばかりで読むのが面倒です。
なお甲谷圭吉さんは山脇家(東京〕に養子に行かれております。この山脇家というのは江戸中期に日本で初めて解剖をした医師の山脇東洋の一統です。子供の山脇洋二さんは故人ですが、東京芸大の彫金科の教授でした。墓は京都深草の真寿院にあります。
甲谷寿史さんの情報
小生の出は、大和芝村藩の典医・甲谷道庵(こうやだったんですね・・)です。
いまでも奈良県桜井市の慶田寺(織田家(信長の弟の有楽斎の子・長政)菩提寺)に、墓があります。
なお、HPのリストの中の甲谷茂・甲谷準一・甲谷秀子・甲谷医院・奈良・近藤病院・新潟の方々はおそらく親戚です。
ということで「コウタニ」と読んでいるようです。
読み方について、
人名よみかた辞典/日外アソシエーツ=こうや・どうあん
日本人名大辞典(2)/平凡社=コーヤドーアン
のように記載されています。